二階堂蓮選手を育てた町の、育成の現場
人口2,800人の町の育成現場
北海道下川町。人口約2,800人、面積の約9割を森林が占めるこの町から、これまでに8人のオリンピアンが巣立っていった。2026年ミラノ・コルティナ五輪で、男子ラージヒル銀、ノーマルヒル銅、混合団体銅と、一大会で3つのメダルを獲得した二階堂蓮選手も、その一人だ。
なぜ、これほど小さな町から世界レベルの選手が育ち続けるのか。その現場を約30年にわたって支えてきたのが、一人のベテラン指導員である。
「いつ辞めてもいい」という空気の中で
その指導員が下川町のジャンプ指導員になったのは、平成6年(1994年)4月のことだった。それ以前、本人も選手だったが、平成4年に現役を引退。札幌で1年を過ごしていたところ、下川町の教育委員会から声がかかった。
もっとも、指導者への道はすんなり決まったわけではない。
「バブルがはじける寸前の、ギラギラした日本を見ていた頃でした。自分で稼いでやろう、起業してやろうと思っていたので、1年半くらい断り続けていたんです」
翻意のきっかけは、周囲だった。家族や町の人々に勧められ、指導員の職に就く。始めた当時、少年団にいたのは中学生7名。小学生も高校生もゼロという状況だった。
町にとって、専任の指導員を置くこと自体が初めての試みだった。それだけに、受け入れる側の空気は決して温かいものではなかったという。
「事務所に行っても、『いつでも辞めていいですよ』みたいな雰囲気でね。『一人雇ったって、オリンピック選手が出るわけないでしょう』という空気でした」
指導だけをしていればいいわけでもなかった。事務仕事とスキー指導を兼ねる日々。1年目は出張旅費もなく、被服費も消耗品費も、公用車もない。「少しずつよくしていかなければ」と考えながらのスタートだった。
「ばかやろう、成績を上げてからにしろ」
環境の改善を求めたとき、当時の上司が投げかけた言葉があった。
「『ばかやろう、成績を上げてからにしろ』と怒鳴られたんです」
この一言が、原点になった。見返してやろう——その気持ちが、指導への姿勢を決定づけ、誰から見ても「無くしてはならない仕事」にしたいと思った。
「今でも、あのときの気持ちで指導しています」
自分の経験を伝える仕事をしている以上、成果を出さなければならない。その意識が、指導員を突き動かし続けた。
子どもたちが見せる、予想を超える成長
長年の指導の中で、繰り返し実感してきたことがある。子どもの成長の可能性だ。
「自分の予想を超えて伸びていくんです」
当初はまったく予想しなかった子が、世界に羽ばたいていくことも何度もあった。小学生から高校生まで、多くの子どもを見てきた指導員をもってしても、成長の行方は読みきれない。
「そういう子を、何人も見せてもらってきました」
選手たちとの関係は、競技を離れても続く。進路の相談を受けることも少なくない。
「就職先の企業はないか、と聞いてくる子もいます。できるだけ本人の意向を手伝ってあげたい。『あの人に言えばなんとかなる』と思ってほしいんです」
育った選手が語る、下川町の環境
指導してきた選手の一人、二階堂蓮選手は、下川町での高校3年間をこう振り返る。
「講師の方々は、教えるのがうまかった。町も応援してくれて、手厚いサポートがありました。ジャンプ台も近くて、いい環境でした」
「育てる側」の指導員の言葉と、「育った側」の二階堂選手の言葉は、下川町の育成環境が確かなものであることを、両側から裏づけている。

令和8年度 下川町町民栄誉賞授与式。ミラノ・コルティナ五輪で獲得した3つのメダルを手に。
応援が、選手を世界に押し上げる
二階堂選手の言葉の中で、特に印象的なものがある。それは、町の応援が競技の結果に直結したという証言だ。
「パブリックビューイングで応援してくれたおかげで、メダルを取ることができました。パレードを回っているときは、感謝の気持ちでいっぱいでした」
町ぐるみの応援は、決して精神的な支えだけにとどまらない。指導員の現役時代を振り返っても、それは明らかだ。

授与式には多くの子どもたちが集まった。町ぐるみで選手を応援する空気が、下川町にはある。
1994年(平成6年)、ノルウェー・リレハンメルオリンピック、ジャンプ団体で、下川町出身の葛西紀明選手、岡部孝信選手らが銀メダルを獲得した。このときの町の盛り上がりは、指導員の記憶にも強く残っている。
その後、2006年のトリノオリンピック日本ジャンプチームは6名の日本人選手を代表としたが、その内4名が下川町出身選手、岡部孝信選手、葛西紀明選手、伊東大貴選手、そして下川町在住の高校2年生、伊藤謙司郎選手が日本代表選手となった。その時の町の反応はさらに大きくなり、地元の建設業協会が支援金を持ってきてくれたこともあったという。こうした地域の応援が、選手育成の土台を支えてきた。
いま、現場が抱える課題
一方で、下川町の育成現場は、現実的な課題に直面している。
半世紀近く続いてきた育成体制を、次の世代へどう引き継いでいくか。指導者の確保は、下川町のジャンプ文化そのものの持続可能性に関わる問題である。
指導員になった当初、選手の遠征を支えるバスの整備や、被服費・消耗品費の確保に苦労した経緯もある。こうした運営基盤を維持し続けることも、変わらぬ課題であり続けている。
ふるさと納税が支える、育成の現場
こうした課題に対し、支えの一つとなっているのがふるさと納税だ。
下川町は、ふるさと納税の使い道の一つとして「ジャンプ選手育成支援事業」を設けている。全国から寄せられた寄付は、育成の現場で具体的な形になっている。
たとえば、選手を大会会場へ運ぶための車両(バス)の購入。そして、競技に不可欠なスキージャンプ板の購入。いずれも、子どもたちが競技を続けるうえで欠かせないものだ。ジャンプは用具費が高く、遠方への遠征も多いため、こうした支援が育成の土台を実際に支えている。
寄付が、子どもたちの「飛ぶための板」になり、「大会へ向かうバス」になる。応援が具体的な形で選手に届く仕組みが、ここにはある。

花束を手に、沿道の人々へ。凱旋パレードは、町の応援に感謝を返す場にもなった。
次の世代へ
二階堂選手は、これからの目標をこう語っている。
「後輩の見本になれるような選手になりたい。僕の成績を見て、ジャンプをやりたいという人が増えたらうれしいです。これからも、いい成績を収めていきたい」
指導員になったとき、周囲は「一人雇ってもオリンピック選手は出ない」と言った。しかし、それから約30年、下川町は現実にオリンピアンを輩出し続けてきた。
その積み重ねを未来へつなぐために、いま、下川町の育成現場は支えを必要としている。二階堂選手が語ったように、町の応援は選手を世界へと押し上げる力になる。